2007年11月19日
祖父を想う・・・
週末、広島に行った話を書きましたが、
病気療養中のところ妻の実家に住む祖父が他界したため、
葬儀に出席するための帰省でした。
原爆ドームを眺めながら浸っていたのは祖父との思い出です。
妻側の祖父ということもあって、当たり前のことながら、
結婚してからのお付き合いであり、妻を経由しなければ、
知り合うことすらなかった人なわけです。
でも・・・生前、祖父とは、たくさんの話をしました。
そのひとつが、祖父の被爆体験でした。
この衝撃的な話は、8月6日に既に書いているので、
今日は、祖父との思い出を書き残しておこうと想います。
祖父は、野球が好きでした。
昔、自分も野球をしていて、
子供たちに教えていたこともあったようです。
そして、とにかく広島カープの熱烈なファンでした。
野球が気になって、ラジオのイヤホンを耳にしたまま、
夕食の席についていたことを思い出します。
本当に大リーグにチャレンジした日本選手には感謝しています。
そのおかげで、祖父が午前中も野球を観戦することが出来たから。
今年のカープは厳しい結果だったけど、
せめて、夏の甲子園・・・広陵高校に優勝してもらいたかった。
祖父が、どんなに喜んだかと想うと、本当に心残りです。
何の根拠もないのだけれども、祖父のポジション、
ショート?と私が当てたときの祖父は、本当に嬉しそうでした。
当てた話で思い出した!
以前、妻の実家に兄弟みんなで集まっているときに、
祖父の子供のころの写真が見つかったことがありました。
「どれが、おじいちゃんだろう・・・」という話になり、
30人くらいの子供から、みんな思うままに指さす・・・
そして、私だけが正解でした。
祖父いわく「ほんまの孫じゃ・・・」と直系孫認定をもらいました。
祖父は、若いころから自転車屋さんを営んでいました。
私は、残念ながら、その店舗を見ていません。
初めて妻の実家を訪問した時点では、
店を閉め、リフォームされた後でした。
でも、一度、祖父の道具を見せてもらったことがあります。
私のベルトの穴が足りなくてブカブカなんです・・・
という話をしたところ、祖父が追加の穴を開けてくれました。
その道具が入っていた物置に、当時の道具が保管されていたんです。
どれも、使い古された、大事に長く使っていたんであろうことが
容易に想像できるような品物の数々。
当時の仕事を、祖父は誇らしげに語っていました。
結婚式に、祖父は「わしゃ、寂しい・・・」と
同居していた妻が家を出ることを思い、
祝辞も忘れて泣いていました・・・そんな祖父が私は大好きでした。
・・・ここまで書いて、涙が止まらなくなりました。
私にとっては、祖父は特別な人になっていました。
爆心地近くで被爆をし、黒い雨を浴び、悲惨な光景を目にし、
決死の思いで家に帰り、たくさんの知人を失った祖父は
「わしは生かされとる・・・」と言っていました。
私には想像すらできないような91年の激動の人生・・・
心から「おつかれさまでした・・・」と言いたいです。
そして、祖父に手を合わせるたびに念じていたこと・・・
「おじいちゃんに会えて良かった・・・」
病気療養中のところ妻の実家に住む祖父が他界したため、
葬儀に出席するための帰省でした。
原爆ドームを眺めながら浸っていたのは祖父との思い出です。
妻側の祖父ということもあって、当たり前のことながら、
結婚してからのお付き合いであり、妻を経由しなければ、
知り合うことすらなかった人なわけです。
でも・・・生前、祖父とは、たくさんの話をしました。
そのひとつが、祖父の被爆体験でした。
この衝撃的な話は、8月6日に既に書いているので、
今日は、祖父との思い出を書き残しておこうと想います。
祖父は、野球が好きでした。
昔、自分も野球をしていて、
子供たちに教えていたこともあったようです。
そして、とにかく広島カープの熱烈なファンでした。
野球が気になって、ラジオのイヤホンを耳にしたまま、
夕食の席についていたことを思い出します。
本当に大リーグにチャレンジした日本選手には感謝しています。
そのおかげで、祖父が午前中も野球を観戦することが出来たから。
今年のカープは厳しい結果だったけど、
せめて、夏の甲子園・・・広陵高校に優勝してもらいたかった。
祖父が、どんなに喜んだかと想うと、本当に心残りです。
何の根拠もないのだけれども、祖父のポジション、
ショート?と私が当てたときの祖父は、本当に嬉しそうでした。
当てた話で思い出した!
以前、妻の実家に兄弟みんなで集まっているときに、
祖父の子供のころの写真が見つかったことがありました。
「どれが、おじいちゃんだろう・・・」という話になり、
30人くらいの子供から、みんな思うままに指さす・・・
そして、私だけが正解でした。
祖父いわく「ほんまの孫じゃ・・・」と直系孫認定をもらいました。
祖父は、若いころから自転車屋さんを営んでいました。
私は、残念ながら、その店舗を見ていません。
初めて妻の実家を訪問した時点では、
店を閉め、リフォームされた後でした。
でも、一度、祖父の道具を見せてもらったことがあります。
私のベルトの穴が足りなくてブカブカなんです・・・
という話をしたところ、祖父が追加の穴を開けてくれました。
その道具が入っていた物置に、当時の道具が保管されていたんです。
どれも、使い古された、大事に長く使っていたんであろうことが
容易に想像できるような品物の数々。
当時の仕事を、祖父は誇らしげに語っていました。
結婚式に、祖父は「わしゃ、寂しい・・・」と
同居していた妻が家を出ることを思い、
祝辞も忘れて泣いていました・・・そんな祖父が私は大好きでした。
・・・ここまで書いて、涙が止まらなくなりました。
私にとっては、祖父は特別な人になっていました。
爆心地近くで被爆をし、黒い雨を浴び、悲惨な光景を目にし、
決死の思いで家に帰り、たくさんの知人を失った祖父は
「わしは生かされとる・・・」と言っていました。
私には想像すらできないような91年の激動の人生・・・
心から「おつかれさまでした・・・」と言いたいです。
そして、祖父に手を合わせるたびに念じていたこと・・・
「おじいちゃんに会えて良かった・・・」